最近、少年たちへのコーチングを頼まれる機会があり、そのために過去の自身の知識や経験の棚卸しをしていますが、その中で、実はあまり語られることの少ない、試合の中での投手・ピッチャーという存在について触れてみたいと思います。
投手は非常に孤独なポジションと考えられがちですが、それは半分が正解で、半分は間違っています。
試合の中で投手は孤立しやすく、そして孤立感を感じることに耐えられるメンタリティが必要になります。
しかし私も現役最後の年に、やっと孤独感のない試合を味わうことが出来ました。
それは投げることへの責任感を違った形で意識することが出来た試合でもありました。
投手は基本的には捕手からのサインという形で、指示に従って投げているという見方もありますが、しかし投げるのは投手であり、その指示通りに投げかどうかの判断も投手で決められるのです。
最終判断の決定権は投手が持っています。
それが大きな孤独感を生む、第一歩になります。
野球というスポーツは投手が投げなければ、試合が始まりません。
これも他のスポーツとは一線を画す部分です。
守備側から試合のスタートの始動意思を持つという特性は、他のスポーツからのメンタリティとも異なった特徴をもつことになりました。
そう、投手は全チームスポーツの中でも特別に孤独感を感じやすいプレーヤーでもあります。
打者を抑えることでは試合には勝てません。
点数は入らないからです。
相手打者に打たれてしまうことで、失点はします。
それからもマイナス思考になりがちです。
ですので、その孤独感からくるメンタリティからくるプレッシャーにも打ち克つために、あるいはその独自のプレッシャーと闘っているという独自性のために、ますます孤立感を強めてしまうのです。
しかし、私がその孤立感から解放されたときのメンタリティは、
「打たれないこともまた評価されるのではないか」
「打たれないことを維持しながらも試合に勝てないのであればそれは俺の責任ではないのではないか」
という半ば責任を限定して、打たれない、という点に範囲を狭めたことにありました。
責任を拡大すればするほど、1人で闘っている感は強まります。
試合を1人でコントロールしている気がするのです。
責任感と孤独感。
バランスが大事だとはよく言いますが、投手は孤独感から解放されるときを持ち続けてマウンドに立つプレーヤーとも言えます。
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