2009年4月2日木曜日

【第9節】勝負の世界(自身19歳)

 日本でメジャーリーグのトライアウトが開催されるとの情報を受け、そのための調整を開始した。

とはいっても開催日は11月である。時期的に投球するにはかなり寒いときである。

体もなかなか温まらず、日々の練習でも故障をしないように細心の注意が必要であった。

 テスト内容は、メジャーらしくピッチャーはブルペンで投球するものが1次審査、ここで残った者が、野手で1次審査を残ったものとの対戦型実践登板ということになっていた。

 1次をクリアし、実践登板に向けて準備をしていた。


そのときに一人のスカウトに呼ばれた。


アメリカでアマチュアではあるがプレーしていたという情報を耳にしたらしい。それで、「一番に投げろ」というのである。


  言われるままにマウンドに上がって投球練習を始めたが、これが、日本特有のマウンドであった。

日本の球場の多くは黒い土で内野は埋め尽くされているのでマ ウンドも傾斜がゆるく、足を踏み出す位置の土が掘れてしまう。(アメリカの球場のマウンドは土が粘土質で硬く、傾斜がきついのである)


  この部分は多少仕方がないとは思いながらも窮屈さを覚えていた。


この当時の変化球の持ち球はスライダーとフォークのみ。

傾斜がゆるいせいか、スライダーが 高めに抜ける。

バッターとの勝負を考えると、これはまずいと思い、フォークのみにするしかないと考えた。

このフォークは落ちることは落ちるのだが、思った 高さで落ちない。

結局主体はストレートということになる。


 それでもこの当時はかなりの自信家であったため「この状況でもなんとかなるだろう」と、侮っていた。


 そしてバッターがバッターボックスに入り、対戦が始まった。

 

 初球のややアウトコース気味のストレート。

 

 カッ という乾いたバットの快音が響いた。この瞬間ボールはレフトスタンドへ。

 初球ホームランである。


 まさか と今の状況をワンテンポ遅れてやっと理解することが出来た。

後で分かったのだが、この選手も私と同様にアメリカでプレーしていた選手であったのである。


 このときに私は自分の未熟さを思い知ることになる。


 どのような状況になっても平静を取り戻し、最小失点に抑え留めておくことが、真のピッチャーである。

しかし、私はこれでこのトライアウトは終わってしまったと思い、とりあえず全力投球をし、スピードをアピールしようと必死に投げたのである。


 しかしその様な力んだボールはコントロールできるわけもなく、フォアボールを連発してしまった。

打たれたことに完全に動揺し、それを意識しすぎて、それを挽回するために、間違った方向に向かってしまったのである。


 私は自身へのうぬぼれによって、真剣勝負の場面であるにも関わらず、挑むべきでない態度で臨んだのである。


 たった一球。


 あの一球が違っていれば、全てが変わっていた可能性は十分にあった思う。


 そして当然、このトライアウトは落選したのである。

勝負を分ける一球。

今思えば当然のことであるのだが、当時未熟であった私には薬としては苦すぎる経験であった。

大勢の前で恥をかいたという自己嫌悪が、プライドとぶつかっていた。


  アメリカでプレーしていたといっても、所詮球が速いだけか、という冷ややかな声も聞こえた。

意地を張ってアメリカに渡った私の心情ごときは、この勝負の場 面では何の影響も与えない、単なる自己満足であるかのように思え、本当に恥ずかしくなった。

と同時に、本当の自分の力を見せ付けることが出来たなら、逆に 勝ち誇ってあざ笑っている側に回っていたのかもしれない、とも反省をした。


 この気持ちは、これからの野球人生で何度も味わうこととなる。



 

【第8節】野球に対する意識の変化

 高校を卒業してまだ6ヶ月程しかたっていない、9月10月には日本のプロ野球の入団テストが実施されるということで急遽日本に帰ってテストを受けることを考え、そのための調整に入った。

 特に日本の入団テストは、投手であれ野手であれ、50メートル走と遠投がある。

  アメリカのトライアウトではピッチャーはマウンドで投げるのみである。

普段ダッシュはトレーニングとしては行うが、50メートルという距離を全力疾走など はほとんどしないために、そのためだけに50メートルを走る練習をしたのである。

遠投もこの頃はほとんどしておらず、遠投を投げることのできる体をつくる 調整をおこなったのである。

 そして満を持して、入団テストの4日前に帰国した。

 初めて受けた入団テストでは、ひどく緊張していたのを覚えている。

しかし、アメリカ人選手に囲まれて生活していたせいか、日本人の入団テスト参加者達は当然小さく見え、全然大した事なさそうだな、と正直がっかりしていたのもあった。


  遠投、50mは基準以上に達していたため、クリアであったが、2次審査のブルペンでのピッチングでは、球速はそこそこであったが、コントロールが思うよう にいかなかった。

まだ日本に帰ってきて4日ということで時差ボケが残っていたせいもあったと思う。

後日連絡をしますということで、この日は帰った。


 そしてこのような感じで他の球団も受けてまわり、後日連絡をくれるというスタイルのところと、その場で合否を伝えられて、別日の最終審査に進むという形の球団もあった。


  そのうちの、日本ハムファイターズが最終審査で「2軍の秋季キャンプに参加してみないか」と打診してきた。

しかしこの話もすぐになかったこととなった。

結局この年の入団テストでは、最終審査どまりで結果が残せなかった。

これは時差ボケと、日本にいる間の1ヶ月弱の間、調整とはいえ、本格的に練習をする環境がなかったの もマイナス要因であった。


 この時期に何か自分の中で野球に対する意識が変わりつつあったのかもしれない。


野球をすることが純粋に楽しいと思えなくなってきた部分があったように思える。

短い期間ではあるが、日本にいたため、家族や友人、恋人など、野球以外での 生活を共に過ごしてきた仲間がいる。

いわば期待感を肌で感じるのである。

それは時として自分自身へのプレシャーを作り出していた。


  1日中 野球が出来る幸せだけでもなんとかなってきたこれまでとは、心境は少しずつ変わってきていた。

仲間に会いたくないとまで思えてきたのである。

この 頃通ったウエイトトレーニング施設でも、面識のない人でも私のことを知っているという人も出てきた。

どこへ行っても自分は「能力があって当たり前」という目でみられているんじゃないかというちょっとした被害妄想癖もこの頃はひどかった。



【第7節】華やかな世界の裏側で踏まれていく多くの選手達 -後編- (自身19歳)

 アメリカのドラフトは6月である。

これは学校が6月で卒業になり、新学期が9月からというサイクルに合わされていることが関係しているのであろう。


 その直前の5月から、私のアマチュアのリーグにはドラフト候補の選手がこぞって参加をし始めた影響で突然レベルが上がった

そしてドラフトが終わった頃、ちらほらとドラフトにかかった選手が抜けていくことによって徐々にレベルが下がっていった。

そんな中でドラフトにかかったにも関わらず、こんな時期に参加してきた選手がいた。


 年齢は当時19歳。私と同い年である。

私達選手で共同生活していたコンドミニアムに一緒に住むことになり、初日の練習でこんな時期に参加してきた意味を知った

 肘に大きな傷跡があった

手術の傷跡である。それも最近に施術したばかりの生々しいものであった。

 キャッチボールは塁間がやっと、重たいものは一切持たない、痛み止めを常に服用している、など、まともに野球など出来るわけがなかったのだ。


 しかしドラフトで1位指名された選手である。

お金には不自由していないようで、夜な夜な遊びに行っていた。

私も何度か連れて行ってもらったが、急に大金を手にしたことで金の使い方を知らないのか、何でもかんでも多額のチップを払っていた。


 その選手は高校生の時に94マイル(151.2km/h)を投げた地元では有名な選手だったらしく、確かに背も190センチ前後、体格もよかった。


 そんな将来も有望で素晴らしい才能をもった、華やかな人生を歩むであろうのにもかかわらずなぜ手術をすることになってしまったのか疑問に思い、ある日、手術をした経緯を聞いた。


 話を聞いて少し恐ろしくなった。


 ドラフトで上位指名され、多額の契約金、多額の年俸をもらえることはかなり以前から分かっていたらしい。

しかし、アメリカではスカウトすら階層に分かれており、いい選手を発掘しドラフトで上位指名させることによってその地位を高めていく、ということが絡んでいた。


 目を付けてくれたスカウトが自分の上司のスカウトにこの選手をこの年のドラフトにかけたいことを伝えるために、上司のスカウトが来るたびに何度も試合で投げさせた。

初めの頃は猛威を振るっていた速球も、連投に近い間隔の短い登板に、球速は遅くなっていった。


 明らかに疲労である。

しかしスカウトは焦っていた。これだけの逸材、ここでドラフトにかけなければ来年以降は他の力のあるスカウトに横取りされてしまう。

 ドラフトで上位指名された選手は3年は待ってくれる。そうすぐにはクビにしない。

なら、どこか悪い箇所を見つけて手術してしまえば、入団してすぐに力を判断されるということはない、と上司を説得したのである。

野球をこのレベルまでしている選手は悪いところのひとつやふたつはあるものである。

 多額の契約金と引き換えに肘を切ったのである。

 

 ある日その選手が寝室で泣いているのを見たことがある。

もしかしたらあの頃のような速球はもう投げられないかもしれないという不安と、多額の契約金のうちの多くをすでに親が事業に使ってしまったことのプレッシャーからだろうか。


 純粋に野球を楽しめた人生から一転して、野球をビジネスとしてとらえる世界の餌食になってしまった若者がそこにいた。


日本のドラフト指名選手が年約80人程度に対し、メジャーリーグドラフト指名選手の数は約1500人。

 トライアウトでの入団やインディペンデント(独立)リーグも含め、年間約2000人という人間がプロ選手になる。

しかしその裏では同じだけの数の選手がクビになっていくのである。


 その後、この選手は結局速球が投げられなくなってしまったまま、3年でプロ選手生活を閉ざしたことを知った。


 今自分が足を踏み入れようとしている世界は、華やかさと裏側の暗い闇の両面を持った、自分ひとりの力ではどうしようもない大きな力が働く世界なのだと実感した。


 この時初めて、自分の歩く道は果たして正しい道なのかと、自問したのである。



【第6節】華やかな世界の裏側で踏まれていく多くの選手達-前篇-(自身19歳)

チームからは就労ビザがもらえないということで、観光用のビザでアマチュアの試合に参加することが、その当時はアメリカで野球をする最善の方法であった。


この頃は本当に意地が先行し、何が何でもアメリカで野球をしてやるという気持ちで焦っていた。


  時期的には高校を卒業した4月(卒業式には出ずに、2月にはアメリカに来ていたため卒業をしたという実感があまりなかった)から、ドラフト候補の大学生を 中心としたアマチュアのチームに参加することとなったのだが、アメリカの大学生のレベルがイマイチ分からなかったので、事前にそのチームを運営しているス ポーツトレーニング施設でトレーニングをする目的で通った。


ここで初めてメジャーリーガーと一緒に練習をすることになる。


 当時ボストンレッドソックス所属のショートストップ、ノマー・ガルシアパーラ選手や、フィラデルフィア・フィリーズのパット・バレル選手、フロリダマーリンズのケビン選手、など10人前後のメジャーリーガー達を目の当たりにして、アメリカで野球をしていることを強く実感していた。


 本当に彼らは気さくで、写真も一緒に撮ってくれたり、マクドナルドに行くついでに一緒に買ってきてくれたりと、野球以外でも野球が好きな人間には優しく、本当に純粋に野球が好きなんだなあと思うシーンが多かった。


トレーニングの量も、質も、モチベーションの高さも、今思い出してもすごかったなと敬意を表する。


  私が始めてアメリカに渡った高校2年の夏に出会ったピッチャーが、ドラフトにかかるということでコーチたちが騒いでいた。


このピッチャーは常時92マイル (148km/h)を投げ、最速96マイル(154.4km/h)にもなるというとんでもない大学生だったのだが、ブルペンで並んで投げるのがイヤになったほど速かったのを覚えている。


 マウンドから爆弾でも投げているのかと思うようなキャッチャーミットの音(アメリカ人のキャッチャーは音を鳴らすことが苦手なためなかなか音は鳴らないのであるが)で、こんな球をデッドボールとして喰らったらたまらないだろうなとぞっとした。


 このピッチャーはサンディエゴ・パドレスから3位指名されることになるのだが、やはりメジャーリーグ、一緒に練習したメジャーリーガーの中にはクローザーをしていたピッチャーもいたのだが、その大学生よりも更に速かった


 この頃は本当に練習や試合をしていても出会う選手の力に驚き、純粋に野球を楽んでいた最後の時期であった。


周りの選手はみな仲間であり、試合での対戦相手ですら、お互いを刺激し会える仲間だと思えた。



【第5節】外国人であるということ

トライアウト会場に行くと、多くの選手達が 我こそが先にとひしめき合っていた。

その中で、当時英語も不自由な18歳の私がその選手達を押しのけて前に出てアピールすることは簡単ではなかった。

 結局その後も含め、3回のテストでは何のアピールも出来ずに終わってしまった。


 そして4回目のトライアウトでは今までの教訓を活かし、恥を捨て、誰よりも早くグラウンドに出てウォーミングアップをし、目に付いた球団関係者には全て大きな声で挨拶をした。


 コンディションは決して悪くなかったので、もしかしたらという期待はあった。


 ・・・・トライアウト終了後、スカウトに呼ばれ、「キャンプに参加しないか」と言われたのである。

もう一人、アメリカ人の青年も呼ばれていた。

 これでまた心の奥で淡い夢が復活したのである。

 そしてまた練習の日々に戻り、数日がたったのに連絡が来ない

いやな予感がし、今度はコーチに電話をかけてもらい、事実を確認してもらうことにした。

 「国籍はどこだ?」

 ビザは持っているのか?」


 私は言っている意味がよく分からず、「国籍は日本で、ビザは取っていない」とだけ答えた。


  ・・・・


 コーチが電話の向こう側と何かを話している。コーチの表情が、「それはしょうがない。残念だ」といったような感じに映った。


 ・・・・コーチが残念そうに話してくれた。


そう、日本人がアメリカでプロ選手として生活するためには就労ビザがいるのである。

プロは野球をしてお金をもらうのであるから、外国人はそのために政府の許可が必要なのである。


 本当に何も知らなかった18歳の私は、日本人であることはアメリカでは外国人である、ということを思い知らされたのである。


 たいていの球団はビザを用意してくれる。

しかし今回のような、すでに球団の持っているビザを、抱えている外国人選手で使い切ってしまっているというケースは多い。


 そして、これから野球の実力だけでなく、国籍という崩せない壁もハードルとして常につきまとったのである。



【第4節】スカウトの解雇

フロリダに来るのも3回目にもなったものでコーチ陣とも仲良くなっていたこともあり、何気なくあのスカウトのことを聞いてみたのである。

 ・・・・・・


 スカウトを解雇されていたのである。

 甘かった・・・。

そんなことが起ころうとは当時18歳の私には思いもよらなかった。


 メジャーリーグでは16歳から選手とのプロ契約を結べるというルールが存在するのだが、焦るあまり選手の年齢をよく確認しないまま契約しようとしてしまったらしい。

特に南米系の選手は英語が不自由であるため意思確認も半端なまま契約してしまうことも多い。


 そのスカウトだけが頼りであったのに、私の中の淡い夢が崩れ去っていくのが分かった。


 しかしこのまま日本に帰るわけにはいかない、私には強烈な意地があった。

「このままどこかのトライアウトでも受けて、受かればいいんだ」

そう思い、コーチに各球団のトライアウトのスケジュールを乞うたのである。



【第3節】日本人であるということ(自身18歳)


 スカウトに気に入られたことで、すっかりアメリカのプロの野球選手になった気分になり、日本では同級生を見下した感じすらあったのかもしれなかった。


現に高校3年生の最後の大会前に野球部を退部するという暴挙にまで出たのである。これについては後ほどの機会に語ることにしたいと思う。


 高校の卒業式を1ヶ月前に控えた1月の終わりに、卒業式を出ないつもりでアメリカ行きを決めた。特に同級生からは惜しむ言葉もなく、この頃にはチームメイト達とも深い溝が出来ていたことは分かっていた。

野球を選んだ人生はこの頃からすでに孤独との闘いでもあった。


 アメリカに渡る直前に、「プロになりたければ高校を卒業してすぐにアメリカに来い」といってくれたスカウトに連絡を試みた。


 しかし何度連絡を試みても一切の音信が途絶えていたのである。


  一抹の不安を抱えながらも「向こうに行けば何とかなるだろう」と楽観的に解釈し、飛行機に乗り、フロリダへと向かった。

フロリダへは当時3本の便を乗り換 えてたどり着かなくてはならなかった。12時間、4時間、2時間と、それぞれ間に待ち時間を含めると25時間もかかったのである。


向こうに着く頃にはクタクタになりながらも、迎えのバンが来ていたことに安心し、宿舎へと向かった。

 翌朝、衝撃の事実を知るのである。