2009年12月29日火曜日

ピッチャーとしての習慣

野球を始めた当初はポジションはセンターでした。
少年野球の頃でしたが、主に外野を守る選手でした。

チームの中でも肩が強く、足も速かったので、自ずと守備範囲の広いポジションに付くことになりました。

その後、中学に上がってから、外野手とピッチャーを兼任しますが、それでもメインポジションはセンターで、1年生でレギュラーを獲得したのもセンターとしてでした。

本格的にピッチャーに転向したのは高校2年生です。

今思い返すと、このときまで高い評価を得ていたのは外野手としてでした。
高校の時も1年生で背番号をもらえたのはセンターとしてでした。

バッティングを高く評価されていたので、出場機会の多い外野手として控えていました。

しかし私自身は内心、外野手ではプロに行くのは非常に難しいと考えていました。

他校にはもっと強力なスラッガーがいましたし、チーム内にも私よりも足の速い選手がいたからです。

しかし肩に関しては、私よりも速い球を投げられる選手がいなかったで、投げることを専門にした方がプロに行ける可能性が一番高いと判断したのです。

私は背も低く175センチしかありません。
そんな選手でも投手としてプレーするには、多くのことに気をつけざるを得ませんでした。

まずは肩・肘のケアです。
利き腕である右の腕では重いものは一切持ちませんでした。

今でこそこのクセは薄らいできていますが、当時は非常に神経質に反応していました。


そして爪を常に短くメンテナンスしていました。
深爪とよく言われましたが、これは今でもクセとして残っています。

少しでも伸びると気になって、すぐに切ってしまいます。
部屋には最低2つの爪切りがありますし、グローブバッグの中にも常に入っています。
海外の出張の際にも必ず携帯していきます。

これは多くのピッチャーの習性だそうです。
仲間のピッチャーも同様でした。

この習性が今も残っている辺りは、当時を思い返しますが、
もし周りに当てはまる人がいれば、過去にピッチャーであったかもしれませんね。

2009年12月27日日曜日

試合の中のピッチャーの存在

最近、少年たちへのコーチングを頼まれる機会があり、そのために過去の自身の知識や経験の棚卸しをしていますが、その中で、実はあまり語られることの少ない、試合の中での投手・ピッチャーという存在について触れてみたいと思います。

投手は非常に孤独なポジションと考えられがちですが、それは半分が正解で、半分は間違っています。

試合の中で投手は孤立しやすく、そして孤立感を感じることに耐えられるメンタリティが必要になります。

しかし私も現役最後の年に、やっと孤独感のない試合を味わうことが出来ました。
それは投げることへの責任感を違った形で意識することが出来た試合でもありました。

投手は基本的には捕手からのサインという形で、指示に従って投げているという見方もありますが、しかし投げるのは投手であり、その指示通りに投げかどうかの判断も投手で決められるのです。

最終判断の決定権は投手が持っています。


それが大きな孤独感を生む、第一歩になります。


野球というスポーツは投手が投げなければ、試合が始まりません。
これも他のスポーツとは一線を画す部分です。

守備側から試合のスタートの始動意思を持つという特性は、他のスポーツからのメンタリティとも異なった特徴をもつことになりました。

そう、投手は全チームスポーツの中でも特別に孤独感を感じやすいプレーヤーでもあります。

打者を抑えることでは試合には勝てません。
点数は入らないからです。

相手打者に打たれてしまうことで、失点はします。
それからもマイナス思考になりがちです。

ですので、その孤独感からくるメンタリティからくるプレッシャーにも打ち克つために、あるいはその独自のプレッシャーと闘っているという独自性のために、ますます孤立感を強めてしまうのです。

しかし、私がその孤立感から解放されたときのメンタリティは、
「打たれないこともまた評価されるのではないか」
「打たれないことを維持しながらも試合に勝てないのであればそれは俺の責任ではないのではないか」
という半ば責任を限定して、打たれない、という点に範囲を狭めたことにありました。

責任を拡大すればするほど、1人で闘っている感は強まります。
試合を1人でコントロールしている気がするのです。

責任感と孤独感。

バランスが大事だとはよく言いますが、投手は孤独感から解放されるときを持ち続けてマウンドに立つプレーヤーとも言えます。

2009年12月26日土曜日

一番うまくいかなったことが”野球”だった

先日、TV出演にて新庄選手が野球を始めたきっかけを話しておられました。

「他のスポーツは始めた頃から結構 簡単になんでも出来たんです。
でも野球だけは初めは全くうまく出来なかった。
最初の頃は自分よりもうまい選手がごろごろいたんです。
それが『野球って難しいな~』という感覚が野球を始めたきっかけです」

このコメントは私が野球を始めたきっかけとほとんど同じ感覚です。

実はこんなことを言いますと、多くの方から反感を買ってしまいますが、スポーツに限らず、勉強にしても何でも、ちょっとその気で取り組むと、簡単に一番になれたんですが、野球だけは自分よりもうまい選手がいて、なかなか敵わなかった。

野球は難しいな。

それが野球の第一印象。

そしてその野球で一流になっているプロ野球選手は
「なんてかっこいいんだ」
と思うようになってきたのです。

今もその価値観はベースになっています。

難しいことを実現することは
かっこいい。

今の仕事にも同様につながっています。

難しいことを実現したい。
日本の野球構造を変えることになるかもしれない構想を
実現することは簡単ではありません。

今はただの構想ですが、
実現に向けて、また強い意志を持って取り組み直したいと思います。

2009年12月18日金曜日

旧友からの連絡

突然懐かしい友人から電話がありました。
野球時代の仲間でした。

もうすぐチームを移籍しようかなと思ってるって唐突に言われても、 今までどのチームにいたかも連絡ナシでいきなり。

一緒にプレーしていたのは4年も前なので、
「今何してるんですか??どこにいるんですか??」
なんて聞かれて、 今までの過程を簡単に説明すると驚いていた。
そりゃあの時はただの野球選手。

その後いきなり教師になって、 そして単身東京に出て、 自己への挑戦ができる環境を探し就業し、
その後会社を立ち上げ現在に至る・・・

たった4年前とは何もかもが大きく違う。
でも4年は長かった。

今は働いている時間を累計すると、 この半年で1年半分のボリュームがあるはず。
密度で計算すると3倍近いってことは、 1年たてば3年分に匹敵することになるってことかぁ・・・
とか話してて勝手に計算してしまいました。

でも寝ないともたないと色んな人に心配されます。
心配させてごめんなさい。

最近は昔の友人と少し接する機会もありました。
時間の流れるスピードが若干違うことに、やや寂しそうでした。

新しく出会う人たちと築いていく社会も楽しいですし、 旧友たちとの相変わらずな狭い社会も気楽で落ち着きます。

仕事の合間に久しぶりに街に出て、 友人と深夜までやっているお店で かなり遅いディナーをしたときのことですが、 自分の世界観も4年前とは随分と変わったなぁと話していて、 振り返りました。

見える世界も景色も顔ぶれも あの頃とは何もかもが違います。
今は若干のノスタルジーです。

1人で深夜もオフィスでデスクに向かっているのが当たり前になってしまった昨今では、あの頃には見えなかったものがはっきりと見えています。

あの頃は、見えなかったが故に、持てる全ての時間、生命、お金、大切なものを贅沢に浪費していました。

たった一つの狭い情熱に全てを浪費していました。
贅沢な日々でした。

引退するまでの2年間は肘の骨が折れた状態で試合に臨み、 痛みと、満足にプレーできないストレス、そしてプレッシャーとの闘いでした。

自分の肘を折ってしまってでも費やした情熱は今思うと恥ずかしくもあり、 いとおしくもあります。

あの頃は完全な異国の地アメリカ。
それがいつの日か故郷になり、そして今度は違った形で土を踏みます。

でも決して野球をしていた頃見た景色は見に行きません。
今見るときっと色んなものが込み上げてきます。

青春と呼べるものをアメリカの大地に置いてきたので、そのままもう触らずに今度は違った情熱の火を灯しにいこうと思います。

アメリカに憧れて夢しか持たずに旅立った若者は冷えた地面に怯えながらも傷に耐え、飢えに屈さず何物にも代えがたい壮大なプロローグを作ってくれました。

懐かしき友人達にふと会ってみたくなった夜更けでした。

2009年12月11日金曜日

懐かしのカリフォルニア2

アメリカに行きますと、やはり様々な部分でいい影響を受けます。
このまま時間を遡って、あの頃に戻れれば、何をしただろうか、とノスタルジックに浸りながら物思いに耽ってしまいます。

時間を戻せるなら、もっと挑戦したことはあっただろうか、あるいはもっと有意義な時間の使い方をしただろうか。

今の仕事に決して直結していない一見無駄な時間を多く過ごしたと思えば、そうとも思えますし、それらも今や全て血となり骨となっていると思えば有意義な時間を過ごしたとも思えます。

特にこのカリフォルニアではプロをクビになってからの7ヶ月を過ごしました。

野球すらもろくに出来ない、トレーニングすらもままならない環境。
野球漬けの毎日で辛かった日々ですら、恵まれていたことに気付きました。



あの過酷な日々から今年で早8年が経ちます。

またあの頃のようにハングリーに闘いたいと思ってしまうのは、今がもう既に甘い環境にあるということでしょうか。

2009年12月9日水曜日

思い出の地へ


先日、思い出の地、カリフォルニア州トーランスに行ってきました。
あの過酷な状況の中、プレッシャーに押しつぶされそうな時間を過ごした日々を思い出しました。

なかなか出来ない経験をさせてもらったと思っていますので、あの日々が自分にとっては非常に重要な財産です。

野球しかすることがなかった生活から、野球すらも出来なくなってしまった生活へと、転落してしまった、その環境の変化にすらついて行けなかったことを思い出します。

ハリウッドにもいた時期がありましたが、その頃はまだいい方で、野球が出来ていましたし、何も困ることはありませんでした。

これだけしていればいい。

から

これすらもできないかもしれない。




今は新たな挑戦をしていますが、まだまだ夢は色あせずに持ち続けたいと思います。