2010年3月1日月曜日

トレーニング時に摂取するトレーニングサプリメントについて

アスリートは高負荷のトレーニングを行うことで、フィジカルな側面からのパフォーマンスを発揮できる体を鍛えていく。

と同時にその過酷なトレーニングに打ち克つ強い精神も鍛えていく。

その過酷なトレーニングでは多くのエネルギーが消費され、グリコーゲンは枯渇し、筋肉組織を分解する。

この影響に対処するために体は直ちに修復のシグナルを送り始める。


このような体のメカニズムを考えると、トレーニング時は体が発する回復と成長開始の自然なシグナルを利用する理想的な時間帯となるが、それにはもちろん適切な栄養素が存在していなくてはいけない。

トレーニングの前・中・後に適切なトレーニングサプリメントを摂取すれば、体を素早くカタボリズム(=異化状態:筋肉や脂肪が分解されていく状態のこと)の状態から、アナボリック(=同化状態:筋肉や脂肪が再合成されて体に蓄えられていくこと)な成長モードへと切り替えることができる。


筋肉が損傷から完全に回復し、より強靱な筋肉へんと変わっていく具体的な連鎖反応はまだ科学者によって解読途中ではあるが、アスリートたちはもう何十年来このプロセスはタンパク質と炭水化物が不可欠であることをよく知っている。

このような事例的情報は従来から当たり前のようになっていたが、最新科学はこれをアミノ酸代謝、タンパク質合成、グルコース取り組みなど、もっと信頼できる分野に向けて研究しており、成長経路を有効に活用するために回復プロセスを強化する新しい方法が注目されるようになった。

数十年来知られている機能的知識と科学的に立証された知識に機能効率を改善する革新的アイディアを組み合わせ、トレーニング時に使う新しいサプリメントが現れた。

2010年2月18日木曜日

野球の夢を見る

今でも野球をしていた頃の夢をみます。

試合で投げている夢と、辛い練習を選手同士で競っている夢です。

あの頃は多くの選手と短い期間だけの共同生活をしてきました。

最初は戸惑いながら、仲良くしようと振る舞っていましたが、そのうち、むしろ仲良くしないようにしていきました。

仲良くしてもすぐにまた離れることになりますし、仲良くなる課程で摩擦が起こるリスクがあるからです。

他人と距離を取って、近づかない。

当時の私が選んだ方法でした。

多くの選手と出会い、別れ、そして再会する。

 選手それぞれにドラマがあり、ストーリーがあります。

今もその夢を見ます。

人に語れる程、鮮明なストーリーがあったおかげで、今もなお、そのストーリーについて興味をもってくださる方にお話をする機会をいただけていることを感謝します。

2010年1月29日金曜日

野球で得たかったインセンティブ

プロ選手当時は、野球をしていくことで金銭的な報酬での金額は、さしてインセンティブとしては重要なものではありませんでした。

矛盾しているようかもしれませんが、今思うと、報酬は決して高くありませんので、金銭的にも余裕はなく、そして成績いかんで簡単に首を切られてしまうような選手生活でしたので、収入源を確保することは重要でもありました。

しかし、苦しいトレーニングを耐えられたのも、そして常に自身のパフォーマンスを高めることを考え続けられたのも、インセンティブを得たいという思いからです。

そのインセンティブが当時はお金ではなく、地位や名誉といわれるものであったか、というと確かに、有名になりたい、あるいはメジャーリーグでの高待遇を受けたい、といった思いも強くありましたが、何よりも、責任のかかった場面でチームの勝敗の成否を背負い高いプレッシャーの中マウンドで試合を牛耳ることが、何よりものインセンティブでした。

支配欲というようなものでしょうか。

今の仕事では決して味わえない、ピッチャー独自のものかもしれません。

そしてそれは自己満足という言葉のほうが近いかもしれません。

しかしあの状況でも野球を楽しめたのは、こういった試合そのものでのインセンティブがあったからだと思っています。

2010年1月20日水曜日

スポーツと野球の可能性

野球では世界は救えない。
911の時には強くそう思いました。

世界には野球の存在すら知らない人がいる。

野球を辞めるまでの2年間はその思いがいつも頭にありました。

そのおかげで野球を辞めるときに未練もなく、
すっきり離れることが出来ました。

世界は広い。

そして救わなくてはいけない世界がある。

野球ではその世界は救えない。

それは今でも思っていますが、
野球で世界を救う方法が、もしかするとあるかもしれない。

そう思って、新たな試みを始めます。
どこかでその試みに出会うことがありましたら、
その際はご協力を仰ぐかもしれません。

スポーツの可能性は誰もが信じている以上に、
もっと広く、大きいということを、証明します。

2010年1月18日月曜日

我が野球人生

いま思い返すと、非常に濃い人生を歩んできたなと思います。

プロをクビになり、 一人でロス郊外を明日のことすら分からない状態で
不安と淡い希望のみで過ごした7ヶ月間。

当時はあの場所に戻ったら涙してしまうと思っていました。
しかし機会あって仕事で、一昨年、当時の場所に戻ってみました。

やはり感慨深いものがありました。

もう二度とあの日に戻りたくないと思いながらも
あの頃の自分は今の自分を想像すら出来なかったと思います。

6年間もアメリカ各地で野球をして生活してきた自分には
それぞれの地に、故郷と思えるくらいの思い入れがあります。

しかしそのそれぞれの地の多くには
もう二度と行くことはないと思います。

その当時も、もう二度と来ることはないと思い、
毎日を生きていました。
本当に今を生きること、
野球で結果を出すことばかりを考えていました。

いつかこの六本木も故郷と呼べるものになってきています。
自分にとってこの人生が一体どういったものになるかは、
まだ見えてはいませんが、きっといい人生だったと思えるものに
なることだけは大きな期待を抱いています。

2010年1月16日土曜日

プレッシャー克服

アメリカでの野球生活で得たものとして
今になっても一番、活きているものは
プレッシャーの克服方法です。

当時は親戚からも友人からも盛大に祝われて、
アメリカに旅立ってきたことを顧みても、
チームを解雇されたくらいで日本に帰ることは、
自身でも許し難いことでした。

ですので、期待に対するプレッシャーへの対処方法は
いやでも考える必要がありました。


プレッシャーへの最善の対処方法は、
「楽しむこと」

それが難しい場合は、
プレッシャーの元に対して
「気にしないこと」

そのためにまず対処しなくてはいけないのは
「何がプレッシャーの元なのか」
を知ることです。


シンプルですが、
テクニックは実践をもってして経験として得られます。

実践を伴わなければ、
理論は所詮、役に立ちません。

プレッシャーの中で継続して
プレーをし続けたことが理論を経験にかえ、
テクニックを身に付けさせることになりました。

ぜひプレッシャーで何も手に付かなくなってしまった場合は、
このことを思い出してみてください。

2010年1月12日火曜日

移動

アメリカでベースボールをする場合、
広い国土のせいもあり、
移動がつきものです。

そしてランクがそう高くないリーグの場合は、
地上での移動です。

そう有名なバス移動です。

マイナーリーグは“ハンバーガーリーグ”と言われる程、
報酬が低く、
移動のための環境も良くありません。

それでも無茶苦茶に悪いわけではありませんので、
慣れれば大したことはありません。

私はこの移動が今も記憶に残っています。

ナイターの後のバス移動での
あの真っ暗な道を進む景色。

あの景色を見ていたときは、
「あとどのくらい野球が続けられるんだろうか」
と耽っていました。

アメリカでの野球生活の
一番の苦労は生活面でした。

英語も当時はまだよく話せなかったため、
野球以外での生活に関しても、
いろいろ気を揉むため、
ストレスがかかりました。

移動で徐々に
そのストレスを加算され、
見えないペースで
蝕まれてきている気がしました。

移動もベースボールの醍醐味です。

2010年1月7日木曜日

審判の重要性

私のように様々なランク・チーム・地域でプレーをしていますと、様々な審判に出会います。

そしてこの審判という役割ですが、野球ではもっとも権限を持っているポジションでもあります。

ピッチャーをしていたこともありますが、試合中に審判のクセに苦しめられることも多くありました。

そう、多くの審判はストライクゾーンが変化するのです。

自身では完全に固定している、と思っている審判が多いのですが、ボールカウントによっても、アウトカウントによっても変化します。

そして私の得意とする投球が変化するファーストボール(アメリカではストレートとは言いません)でしたので、これが仇となることも多くありました。

まったくストライクを取ってくれない審判と、ストライクばかり取ってくれる審判とに分かれます。

その間というのはあまりいませんでした。

好き嫌いの問題もあるのでしょうか。


なぜか極端なほど、ジャッジが試合によって(当然、試合ごとに審判が違いますので)違ってしまうという状況の中で、プレーをしていました。


今思うと怒りがこみ上げてくる審判もいますし、非常に好感のもてる審判もいました。
(それは自分にジャッジが有利だったという単純な理由も含まれているでしょう)


試合を左右するのは実は審判の質であったりすることも意識して試合を観ると、また違った楽しみ方も追加されますね。

2009年12月29日火曜日

ピッチャーとしての習慣

野球を始めた当初はポジションはセンターでした。
少年野球の頃でしたが、主に外野を守る選手でした。

チームの中でも肩が強く、足も速かったので、自ずと守備範囲の広いポジションに付くことになりました。

その後、中学に上がってから、外野手とピッチャーを兼任しますが、それでもメインポジションはセンターで、1年生でレギュラーを獲得したのもセンターとしてでした。

本格的にピッチャーに転向したのは高校2年生です。

今思い返すと、このときまで高い評価を得ていたのは外野手としてでした。
高校の時も1年生で背番号をもらえたのはセンターとしてでした。

バッティングを高く評価されていたので、出場機会の多い外野手として控えていました。

しかし私自身は内心、外野手ではプロに行くのは非常に難しいと考えていました。

他校にはもっと強力なスラッガーがいましたし、チーム内にも私よりも足の速い選手がいたからです。

しかし肩に関しては、私よりも速い球を投げられる選手がいなかったで、投げることを専門にした方がプロに行ける可能性が一番高いと判断したのです。

私は背も低く175センチしかありません。
そんな選手でも投手としてプレーするには、多くのことに気をつけざるを得ませんでした。

まずは肩・肘のケアです。
利き腕である右の腕では重いものは一切持ちませんでした。

今でこそこのクセは薄らいできていますが、当時は非常に神経質に反応していました。


そして爪を常に短くメンテナンスしていました。
深爪とよく言われましたが、これは今でもクセとして残っています。

少しでも伸びると気になって、すぐに切ってしまいます。
部屋には最低2つの爪切りがありますし、グローブバッグの中にも常に入っています。
海外の出張の際にも必ず携帯していきます。

これは多くのピッチャーの習性だそうです。
仲間のピッチャーも同様でした。

この習性が今も残っている辺りは、当時を思い返しますが、
もし周りに当てはまる人がいれば、過去にピッチャーであったかもしれませんね。

2009年12月27日日曜日

試合の中のピッチャーの存在

最近、少年たちへのコーチングを頼まれる機会があり、そのために過去の自身の知識や経験の棚卸しをしていますが、その中で、実はあまり語られることの少ない、試合の中での投手・ピッチャーという存在について触れてみたいと思います。

投手は非常に孤独なポジションと考えられがちですが、それは半分が正解で、半分は間違っています。

試合の中で投手は孤立しやすく、そして孤立感を感じることに耐えられるメンタリティが必要になります。

しかし私も現役最後の年に、やっと孤独感のない試合を味わうことが出来ました。
それは投げることへの責任感を違った形で意識することが出来た試合でもありました。

投手は基本的には捕手からのサインという形で、指示に従って投げているという見方もありますが、しかし投げるのは投手であり、その指示通りに投げかどうかの判断も投手で決められるのです。

最終判断の決定権は投手が持っています。


それが大きな孤独感を生む、第一歩になります。


野球というスポーツは投手が投げなければ、試合が始まりません。
これも他のスポーツとは一線を画す部分です。

守備側から試合のスタートの始動意思を持つという特性は、他のスポーツからのメンタリティとも異なった特徴をもつことになりました。

そう、投手は全チームスポーツの中でも特別に孤独感を感じやすいプレーヤーでもあります。

打者を抑えることでは試合には勝てません。
点数は入らないからです。

相手打者に打たれてしまうことで、失点はします。
それからもマイナス思考になりがちです。

ですので、その孤独感からくるメンタリティからくるプレッシャーにも打ち克つために、あるいはその独自のプレッシャーと闘っているという独自性のために、ますます孤立感を強めてしまうのです。

しかし、私がその孤立感から解放されたときのメンタリティは、
「打たれないこともまた評価されるのではないか」
「打たれないことを維持しながらも試合に勝てないのであればそれは俺の責任ではないのではないか」
という半ば責任を限定して、打たれない、という点に範囲を狭めたことにありました。

責任を拡大すればするほど、1人で闘っている感は強まります。
試合を1人でコントロールしている気がするのです。

責任感と孤独感。

バランスが大事だとはよく言いますが、投手は孤独感から解放されるときを持ち続けてマウンドに立つプレーヤーとも言えます。