2009年12月29日火曜日

ピッチャーとしての習慣

野球を始めた当初はポジションはセンターでした。
少年野球の頃でしたが、主に外野を守る選手でした。

チームの中でも肩が強く、足も速かったので、自ずと守備範囲の広いポジションに付くことになりました。

その後、中学に上がってから、外野手とピッチャーを兼任しますが、それでもメインポジションはセンターで、1年生でレギュラーを獲得したのもセンターとしてでした。

本格的にピッチャーに転向したのは高校2年生です。

今思い返すと、このときまで高い評価を得ていたのは外野手としてでした。
高校の時も1年生で背番号をもらえたのはセンターとしてでした。

バッティングを高く評価されていたので、出場機会の多い外野手として控えていました。

しかし私自身は内心、外野手ではプロに行くのは非常に難しいと考えていました。

他校にはもっと強力なスラッガーがいましたし、チーム内にも私よりも足の速い選手がいたからです。

しかし肩に関しては、私よりも速い球を投げられる選手がいなかったで、投げることを専門にした方がプロに行ける可能性が一番高いと判断したのです。

私は背も低く175センチしかありません。
そんな選手でも投手としてプレーするには、多くのことに気をつけざるを得ませんでした。

まずは肩・肘のケアです。
利き腕である右の腕では重いものは一切持ちませんでした。

今でこそこのクセは薄らいできていますが、当時は非常に神経質に反応していました。


そして爪を常に短くメンテナンスしていました。
深爪とよく言われましたが、これは今でもクセとして残っています。

少しでも伸びると気になって、すぐに切ってしまいます。
部屋には最低2つの爪切りがありますし、グローブバッグの中にも常に入っています。
海外の出張の際にも必ず携帯していきます。

これは多くのピッチャーの習性だそうです。
仲間のピッチャーも同様でした。

この習性が今も残っている辺りは、当時を思い返しますが、
もし周りに当てはまる人がいれば、過去にピッチャーであったかもしれませんね。

2009年12月27日日曜日

試合の中のピッチャーの存在

最近、少年たちへのコーチングを頼まれる機会があり、そのために過去の自身の知識や経験の棚卸しをしていますが、その中で、実はあまり語られることの少ない、試合の中での投手・ピッチャーという存在について触れてみたいと思います。

投手は非常に孤独なポジションと考えられがちですが、それは半分が正解で、半分は間違っています。

試合の中で投手は孤立しやすく、そして孤立感を感じることに耐えられるメンタリティが必要になります。

しかし私も現役最後の年に、やっと孤独感のない試合を味わうことが出来ました。
それは投げることへの責任感を違った形で意識することが出来た試合でもありました。

投手は基本的には捕手からのサインという形で、指示に従って投げているという見方もありますが、しかし投げるのは投手であり、その指示通りに投げかどうかの判断も投手で決められるのです。

最終判断の決定権は投手が持っています。


それが大きな孤独感を生む、第一歩になります。


野球というスポーツは投手が投げなければ、試合が始まりません。
これも他のスポーツとは一線を画す部分です。

守備側から試合のスタートの始動意思を持つという特性は、他のスポーツからのメンタリティとも異なった特徴をもつことになりました。

そう、投手は全チームスポーツの中でも特別に孤独感を感じやすいプレーヤーでもあります。

打者を抑えることでは試合には勝てません。
点数は入らないからです。

相手打者に打たれてしまうことで、失点はします。
それからもマイナス思考になりがちです。

ですので、その孤独感からくるメンタリティからくるプレッシャーにも打ち克つために、あるいはその独自のプレッシャーと闘っているという独自性のために、ますます孤立感を強めてしまうのです。

しかし、私がその孤立感から解放されたときのメンタリティは、
「打たれないこともまた評価されるのではないか」
「打たれないことを維持しながらも試合に勝てないのであればそれは俺の責任ではないのではないか」
という半ば責任を限定して、打たれない、という点に範囲を狭めたことにありました。

責任を拡大すればするほど、1人で闘っている感は強まります。
試合を1人でコントロールしている気がするのです。

責任感と孤独感。

バランスが大事だとはよく言いますが、投手は孤独感から解放されるときを持ち続けてマウンドに立つプレーヤーとも言えます。

2009年12月26日土曜日

一番うまくいかなったことが”野球”だった

先日、TV出演にて新庄選手が野球を始めたきっかけを話しておられました。

「他のスポーツは始めた頃から結構 簡単になんでも出来たんです。
でも野球だけは初めは全くうまく出来なかった。
最初の頃は自分よりもうまい選手がごろごろいたんです。
それが『野球って難しいな~』という感覚が野球を始めたきっかけです」

このコメントは私が野球を始めたきっかけとほとんど同じ感覚です。

実はこんなことを言いますと、多くの方から反感を買ってしまいますが、スポーツに限らず、勉強にしても何でも、ちょっとその気で取り組むと、簡単に一番になれたんですが、野球だけは自分よりもうまい選手がいて、なかなか敵わなかった。

野球は難しいな。

それが野球の第一印象。

そしてその野球で一流になっているプロ野球選手は
「なんてかっこいいんだ」
と思うようになってきたのです。

今もその価値観はベースになっています。

難しいことを実現することは
かっこいい。

今の仕事にも同様につながっています。

難しいことを実現したい。
日本の野球構造を変えることになるかもしれない構想を
実現することは簡単ではありません。

今はただの構想ですが、
実現に向けて、また強い意志を持って取り組み直したいと思います。

2009年12月18日金曜日

旧友からの連絡

突然懐かしい友人から電話がありました。
野球時代の仲間でした。

もうすぐチームを移籍しようかなと思ってるって唐突に言われても、 今までどのチームにいたかも連絡ナシでいきなり。

一緒にプレーしていたのは4年も前なので、
「今何してるんですか??どこにいるんですか??」
なんて聞かれて、 今までの過程を簡単に説明すると驚いていた。
そりゃあの時はただの野球選手。

その後いきなり教師になって、 そして単身東京に出て、 自己への挑戦ができる環境を探し就業し、
その後会社を立ち上げ現在に至る・・・

たった4年前とは何もかもが大きく違う。
でも4年は長かった。

今は働いている時間を累計すると、 この半年で1年半分のボリュームがあるはず。
密度で計算すると3倍近いってことは、 1年たてば3年分に匹敵することになるってことかぁ・・・
とか話してて勝手に計算してしまいました。

でも寝ないともたないと色んな人に心配されます。
心配させてごめんなさい。

最近は昔の友人と少し接する機会もありました。
時間の流れるスピードが若干違うことに、やや寂しそうでした。

新しく出会う人たちと築いていく社会も楽しいですし、 旧友たちとの相変わらずな狭い社会も気楽で落ち着きます。

仕事の合間に久しぶりに街に出て、 友人と深夜までやっているお店で かなり遅いディナーをしたときのことですが、 自分の世界観も4年前とは随分と変わったなぁと話していて、 振り返りました。

見える世界も景色も顔ぶれも あの頃とは何もかもが違います。
今は若干のノスタルジーです。

1人で深夜もオフィスでデスクに向かっているのが当たり前になってしまった昨今では、あの頃には見えなかったものがはっきりと見えています。

あの頃は、見えなかったが故に、持てる全ての時間、生命、お金、大切なものを贅沢に浪費していました。

たった一つの狭い情熱に全てを浪費していました。
贅沢な日々でした。

引退するまでの2年間は肘の骨が折れた状態で試合に臨み、 痛みと、満足にプレーできないストレス、そしてプレッシャーとの闘いでした。

自分の肘を折ってしまってでも費やした情熱は今思うと恥ずかしくもあり、 いとおしくもあります。

あの頃は完全な異国の地アメリカ。
それがいつの日か故郷になり、そして今度は違った形で土を踏みます。

でも決して野球をしていた頃見た景色は見に行きません。
今見るときっと色んなものが込み上げてきます。

青春と呼べるものをアメリカの大地に置いてきたので、そのままもう触らずに今度は違った情熱の火を灯しにいこうと思います。

アメリカに憧れて夢しか持たずに旅立った若者は冷えた地面に怯えながらも傷に耐え、飢えに屈さず何物にも代えがたい壮大なプロローグを作ってくれました。

懐かしき友人達にふと会ってみたくなった夜更けでした。

2009年12月11日金曜日

懐かしのカリフォルニア2

アメリカに行きますと、やはり様々な部分でいい影響を受けます。
このまま時間を遡って、あの頃に戻れれば、何をしただろうか、とノスタルジックに浸りながら物思いに耽ってしまいます。

時間を戻せるなら、もっと挑戦したことはあっただろうか、あるいはもっと有意義な時間の使い方をしただろうか。

今の仕事に決して直結していない一見無駄な時間を多く過ごしたと思えば、そうとも思えますし、それらも今や全て血となり骨となっていると思えば有意義な時間を過ごしたとも思えます。

特にこのカリフォルニアではプロをクビになってからの7ヶ月を過ごしました。

野球すらもろくに出来ない、トレーニングすらもままならない環境。
野球漬けの毎日で辛かった日々ですら、恵まれていたことに気付きました。



あの過酷な日々から今年で早8年が経ちます。

またあの頃のようにハングリーに闘いたいと思ってしまうのは、今がもう既に甘い環境にあるということでしょうか。

2009年12月9日水曜日

思い出の地へ


先日、思い出の地、カリフォルニア州トーランスに行ってきました。
あの過酷な状況の中、プレッシャーに押しつぶされそうな時間を過ごした日々を思い出しました。

なかなか出来ない経験をさせてもらったと思っていますので、あの日々が自分にとっては非常に重要な財産です。

野球しかすることがなかった生活から、野球すらも出来なくなってしまった生活へと、転落してしまった、その環境の変化にすらついて行けなかったことを思い出します。

ハリウッドにもいた時期がありましたが、その頃はまだいい方で、野球が出来ていましたし、何も困ることはありませんでした。

これだけしていればいい。

から

これすらもできないかもしれない。




今は新たな挑戦をしていますが、まだまだ夢は色あせずに持ち続けたいと思います。

2009年4月2日木曜日

【第9節】勝負の世界(自身19歳)

 日本でメジャーリーグのトライアウトが開催されるとの情報を受け、そのための調整を開始した。

とはいっても開催日は11月である。時期的に投球するにはかなり寒いときである。

体もなかなか温まらず、日々の練習でも故障をしないように細心の注意が必要であった。

 テスト内容は、メジャーらしくピッチャーはブルペンで投球するものが1次審査、ここで残った者が、野手で1次審査を残ったものとの対戦型実践登板ということになっていた。

 1次をクリアし、実践登板に向けて準備をしていた。


そのときに一人のスカウトに呼ばれた。


アメリカでアマチュアではあるがプレーしていたという情報を耳にしたらしい。それで、「一番に投げろ」というのである。


  言われるままにマウンドに上がって投球練習を始めたが、これが、日本特有のマウンドであった。

日本の球場の多くは黒い土で内野は埋め尽くされているのでマ ウンドも傾斜がゆるく、足を踏み出す位置の土が掘れてしまう。(アメリカの球場のマウンドは土が粘土質で硬く、傾斜がきついのである)


  この部分は多少仕方がないとは思いながらも窮屈さを覚えていた。


この当時の変化球の持ち球はスライダーとフォークのみ。

傾斜がゆるいせいか、スライダーが 高めに抜ける。

バッターとの勝負を考えると、これはまずいと思い、フォークのみにするしかないと考えた。

このフォークは落ちることは落ちるのだが、思った 高さで落ちない。

結局主体はストレートということになる。


 それでもこの当時はかなりの自信家であったため「この状況でもなんとかなるだろう」と、侮っていた。


 そしてバッターがバッターボックスに入り、対戦が始まった。

 

 初球のややアウトコース気味のストレート。

 

 カッ という乾いたバットの快音が響いた。この瞬間ボールはレフトスタンドへ。

 初球ホームランである。


 まさか と今の状況をワンテンポ遅れてやっと理解することが出来た。

後で分かったのだが、この選手も私と同様にアメリカでプレーしていた選手であったのである。


 このときに私は自分の未熟さを思い知ることになる。


 どのような状況になっても平静を取り戻し、最小失点に抑え留めておくことが、真のピッチャーである。

しかし、私はこれでこのトライアウトは終わってしまったと思い、とりあえず全力投球をし、スピードをアピールしようと必死に投げたのである。


 しかしその様な力んだボールはコントロールできるわけもなく、フォアボールを連発してしまった。

打たれたことに完全に動揺し、それを意識しすぎて、それを挽回するために、間違った方向に向かってしまったのである。


 私は自身へのうぬぼれによって、真剣勝負の場面であるにも関わらず、挑むべきでない態度で臨んだのである。


 たった一球。


 あの一球が違っていれば、全てが変わっていた可能性は十分にあった思う。


 そして当然、このトライアウトは落選したのである。

勝負を分ける一球。

今思えば当然のことであるのだが、当時未熟であった私には薬としては苦すぎる経験であった。

大勢の前で恥をかいたという自己嫌悪が、プライドとぶつかっていた。


  アメリカでプレーしていたといっても、所詮球が速いだけか、という冷ややかな声も聞こえた。

意地を張ってアメリカに渡った私の心情ごときは、この勝負の場 面では何の影響も与えない、単なる自己満足であるかのように思え、本当に恥ずかしくなった。

と同時に、本当の自分の力を見せ付けることが出来たなら、逆に 勝ち誇ってあざ笑っている側に回っていたのかもしれない、とも反省をした。


 この気持ちは、これからの野球人生で何度も味わうこととなる。



 

【第8節】野球に対する意識の変化

 高校を卒業してまだ6ヶ月程しかたっていない、9月10月には日本のプロ野球の入団テストが実施されるということで急遽日本に帰ってテストを受けることを考え、そのための調整に入った。

 特に日本の入団テストは、投手であれ野手であれ、50メートル走と遠投がある。

  アメリカのトライアウトではピッチャーはマウンドで投げるのみである。

普段ダッシュはトレーニングとしては行うが、50メートルという距離を全力疾走など はほとんどしないために、そのためだけに50メートルを走る練習をしたのである。

遠投もこの頃はほとんどしておらず、遠投を投げることのできる体をつくる 調整をおこなったのである。

 そして満を持して、入団テストの4日前に帰国した。

 初めて受けた入団テストでは、ひどく緊張していたのを覚えている。

しかし、アメリカ人選手に囲まれて生活していたせいか、日本人の入団テスト参加者達は当然小さく見え、全然大した事なさそうだな、と正直がっかりしていたのもあった。


  遠投、50mは基準以上に達していたため、クリアであったが、2次審査のブルペンでのピッチングでは、球速はそこそこであったが、コントロールが思うよう にいかなかった。

まだ日本に帰ってきて4日ということで時差ボケが残っていたせいもあったと思う。

後日連絡をしますということで、この日は帰った。


 そしてこのような感じで他の球団も受けてまわり、後日連絡をくれるというスタイルのところと、その場で合否を伝えられて、別日の最終審査に進むという形の球団もあった。


  そのうちの、日本ハムファイターズが最終審査で「2軍の秋季キャンプに参加してみないか」と打診してきた。

しかしこの話もすぐになかったこととなった。

結局この年の入団テストでは、最終審査どまりで結果が残せなかった。

これは時差ボケと、日本にいる間の1ヶ月弱の間、調整とはいえ、本格的に練習をする環境がなかったの もマイナス要因であった。


 この時期に何か自分の中で野球に対する意識が変わりつつあったのかもしれない。


野球をすることが純粋に楽しいと思えなくなってきた部分があったように思える。

短い期間ではあるが、日本にいたため、家族や友人、恋人など、野球以外での 生活を共に過ごしてきた仲間がいる。

いわば期待感を肌で感じるのである。

それは時として自分自身へのプレシャーを作り出していた。


  1日中 野球が出来る幸せだけでもなんとかなってきたこれまでとは、心境は少しずつ変わってきていた。

仲間に会いたくないとまで思えてきたのである。

この 頃通ったウエイトトレーニング施設でも、面識のない人でも私のことを知っているという人も出てきた。

どこへ行っても自分は「能力があって当たり前」という目でみられているんじゃないかというちょっとした被害妄想癖もこの頃はひどかった。



【第7節】華やかな世界の裏側で踏まれていく多くの選手達 -後編- (自身19歳)

 アメリカのドラフトは6月である。

これは学校が6月で卒業になり、新学期が9月からというサイクルに合わされていることが関係しているのであろう。


 その直前の5月から、私のアマチュアのリーグにはドラフト候補の選手がこぞって参加をし始めた影響で突然レベルが上がった

そしてドラフトが終わった頃、ちらほらとドラフトにかかった選手が抜けていくことによって徐々にレベルが下がっていった。

そんな中でドラフトにかかったにも関わらず、こんな時期に参加してきた選手がいた。


 年齢は当時19歳。私と同い年である。

私達選手で共同生活していたコンドミニアムに一緒に住むことになり、初日の練習でこんな時期に参加してきた意味を知った

 肘に大きな傷跡があった

手術の傷跡である。それも最近に施術したばかりの生々しいものであった。

 キャッチボールは塁間がやっと、重たいものは一切持たない、痛み止めを常に服用している、など、まともに野球など出来るわけがなかったのだ。


 しかしドラフトで1位指名された選手である。

お金には不自由していないようで、夜な夜な遊びに行っていた。

私も何度か連れて行ってもらったが、急に大金を手にしたことで金の使い方を知らないのか、何でもかんでも多額のチップを払っていた。


 その選手は高校生の時に94マイル(151.2km/h)を投げた地元では有名な選手だったらしく、確かに背も190センチ前後、体格もよかった。


 そんな将来も有望で素晴らしい才能をもった、華やかな人生を歩むであろうのにもかかわらずなぜ手術をすることになってしまったのか疑問に思い、ある日、手術をした経緯を聞いた。


 話を聞いて少し恐ろしくなった。


 ドラフトで上位指名され、多額の契約金、多額の年俸をもらえることはかなり以前から分かっていたらしい。

しかし、アメリカではスカウトすら階層に分かれており、いい選手を発掘しドラフトで上位指名させることによってその地位を高めていく、ということが絡んでいた。


 目を付けてくれたスカウトが自分の上司のスカウトにこの選手をこの年のドラフトにかけたいことを伝えるために、上司のスカウトが来るたびに何度も試合で投げさせた。

初めの頃は猛威を振るっていた速球も、連投に近い間隔の短い登板に、球速は遅くなっていった。


 明らかに疲労である。

しかしスカウトは焦っていた。これだけの逸材、ここでドラフトにかけなければ来年以降は他の力のあるスカウトに横取りされてしまう。

 ドラフトで上位指名された選手は3年は待ってくれる。そうすぐにはクビにしない。

なら、どこか悪い箇所を見つけて手術してしまえば、入団してすぐに力を判断されるということはない、と上司を説得したのである。

野球をこのレベルまでしている選手は悪いところのひとつやふたつはあるものである。

 多額の契約金と引き換えに肘を切ったのである。

 

 ある日その選手が寝室で泣いているのを見たことがある。

もしかしたらあの頃のような速球はもう投げられないかもしれないという不安と、多額の契約金のうちの多くをすでに親が事業に使ってしまったことのプレッシャーからだろうか。


 純粋に野球を楽しめた人生から一転して、野球をビジネスとしてとらえる世界の餌食になってしまった若者がそこにいた。


日本のドラフト指名選手が年約80人程度に対し、メジャーリーグドラフト指名選手の数は約1500人。

 トライアウトでの入団やインディペンデント(独立)リーグも含め、年間約2000人という人間がプロ選手になる。

しかしその裏では同じだけの数の選手がクビになっていくのである。


 その後、この選手は結局速球が投げられなくなってしまったまま、3年でプロ選手生活を閉ざしたことを知った。


 今自分が足を踏み入れようとしている世界は、華やかさと裏側の暗い闇の両面を持った、自分ひとりの力ではどうしようもない大きな力が働く世界なのだと実感した。


 この時初めて、自分の歩く道は果たして正しい道なのかと、自問したのである。



【第6節】華やかな世界の裏側で踏まれていく多くの選手達-前篇-(自身19歳)

チームからは就労ビザがもらえないということで、観光用のビザでアマチュアの試合に参加することが、その当時はアメリカで野球をする最善の方法であった。


この頃は本当に意地が先行し、何が何でもアメリカで野球をしてやるという気持ちで焦っていた。


  時期的には高校を卒業した4月(卒業式には出ずに、2月にはアメリカに来ていたため卒業をしたという実感があまりなかった)から、ドラフト候補の大学生を 中心としたアマチュアのチームに参加することとなったのだが、アメリカの大学生のレベルがイマイチ分からなかったので、事前にそのチームを運営しているス ポーツトレーニング施設でトレーニングをする目的で通った。


ここで初めてメジャーリーガーと一緒に練習をすることになる。


 当時ボストンレッドソックス所属のショートストップ、ノマー・ガルシアパーラ選手や、フィラデルフィア・フィリーズのパット・バレル選手、フロリダマーリンズのケビン選手、など10人前後のメジャーリーガー達を目の当たりにして、アメリカで野球をしていることを強く実感していた。


 本当に彼らは気さくで、写真も一緒に撮ってくれたり、マクドナルドに行くついでに一緒に買ってきてくれたりと、野球以外でも野球が好きな人間には優しく、本当に純粋に野球が好きなんだなあと思うシーンが多かった。


トレーニングの量も、質も、モチベーションの高さも、今思い出してもすごかったなと敬意を表する。


  私が始めてアメリカに渡った高校2年の夏に出会ったピッチャーが、ドラフトにかかるということでコーチたちが騒いでいた。


このピッチャーは常時92マイル (148km/h)を投げ、最速96マイル(154.4km/h)にもなるというとんでもない大学生だったのだが、ブルペンで並んで投げるのがイヤになったほど速かったのを覚えている。


 マウンドから爆弾でも投げているのかと思うようなキャッチャーミットの音(アメリカ人のキャッチャーは音を鳴らすことが苦手なためなかなか音は鳴らないのであるが)で、こんな球をデッドボールとして喰らったらたまらないだろうなとぞっとした。


 このピッチャーはサンディエゴ・パドレスから3位指名されることになるのだが、やはりメジャーリーグ、一緒に練習したメジャーリーガーの中にはクローザーをしていたピッチャーもいたのだが、その大学生よりも更に速かった


 この頃は本当に練習や試合をしていても出会う選手の力に驚き、純粋に野球を楽んでいた最後の時期であった。


周りの選手はみな仲間であり、試合での対戦相手ですら、お互いを刺激し会える仲間だと思えた。



【第5節】外国人であるということ

トライアウト会場に行くと、多くの選手達が 我こそが先にとひしめき合っていた。

その中で、当時英語も不自由な18歳の私がその選手達を押しのけて前に出てアピールすることは簡単ではなかった。

 結局その後も含め、3回のテストでは何のアピールも出来ずに終わってしまった。


 そして4回目のトライアウトでは今までの教訓を活かし、恥を捨て、誰よりも早くグラウンドに出てウォーミングアップをし、目に付いた球団関係者には全て大きな声で挨拶をした。


 コンディションは決して悪くなかったので、もしかしたらという期待はあった。


 ・・・・トライアウト終了後、スカウトに呼ばれ、「キャンプに参加しないか」と言われたのである。

もう一人、アメリカ人の青年も呼ばれていた。

 これでまた心の奥で淡い夢が復活したのである。

 そしてまた練習の日々に戻り、数日がたったのに連絡が来ない

いやな予感がし、今度はコーチに電話をかけてもらい、事実を確認してもらうことにした。

 「国籍はどこだ?」

 ビザは持っているのか?」


 私は言っている意味がよく分からず、「国籍は日本で、ビザは取っていない」とだけ答えた。


  ・・・・


 コーチが電話の向こう側と何かを話している。コーチの表情が、「それはしょうがない。残念だ」といったような感じに映った。


 ・・・・コーチが残念そうに話してくれた。


そう、日本人がアメリカでプロ選手として生活するためには就労ビザがいるのである。

プロは野球をしてお金をもらうのであるから、外国人はそのために政府の許可が必要なのである。


 本当に何も知らなかった18歳の私は、日本人であることはアメリカでは外国人である、ということを思い知らされたのである。


 たいていの球団はビザを用意してくれる。

しかし今回のような、すでに球団の持っているビザを、抱えている外国人選手で使い切ってしまっているというケースは多い。


 そして、これから野球の実力だけでなく、国籍という崩せない壁もハードルとして常につきまとったのである。



【第4節】スカウトの解雇

フロリダに来るのも3回目にもなったものでコーチ陣とも仲良くなっていたこともあり、何気なくあのスカウトのことを聞いてみたのである。

 ・・・・・・


 スカウトを解雇されていたのである。

 甘かった・・・。

そんなことが起ころうとは当時18歳の私には思いもよらなかった。


 メジャーリーグでは16歳から選手とのプロ契約を結べるというルールが存在するのだが、焦るあまり選手の年齢をよく確認しないまま契約しようとしてしまったらしい。

特に南米系の選手は英語が不自由であるため意思確認も半端なまま契約してしまうことも多い。


 そのスカウトだけが頼りであったのに、私の中の淡い夢が崩れ去っていくのが分かった。


 しかしこのまま日本に帰るわけにはいかない、私には強烈な意地があった。

「このままどこかのトライアウトでも受けて、受かればいいんだ」

そう思い、コーチに各球団のトライアウトのスケジュールを乞うたのである。



【第3節】日本人であるということ(自身18歳)


 スカウトに気に入られたことで、すっかりアメリカのプロの野球選手になった気分になり、日本では同級生を見下した感じすらあったのかもしれなかった。


現に高校3年生の最後の大会前に野球部を退部するという暴挙にまで出たのである。これについては後ほどの機会に語ることにしたいと思う。


 高校の卒業式を1ヶ月前に控えた1月の終わりに、卒業式を出ないつもりでアメリカ行きを決めた。特に同級生からは惜しむ言葉もなく、この頃にはチームメイト達とも深い溝が出来ていたことは分かっていた。

野球を選んだ人生はこの頃からすでに孤独との闘いでもあった。


 アメリカに渡る直前に、「プロになりたければ高校を卒業してすぐにアメリカに来い」といってくれたスカウトに連絡を試みた。


 しかし何度連絡を試みても一切の音信が途絶えていたのである。


  一抹の不安を抱えながらも「向こうに行けば何とかなるだろう」と楽観的に解釈し、飛行機に乗り、フロリダへと向かった。

フロリダへは当時3本の便を乗り換 えてたどり着かなくてはならなかった。12時間、4時間、2時間と、それぞれ間に待ち時間を含めると25時間もかかったのである。


向こうに着く頃にはクタクタになりながらも、迎えのバンが来ていたことに安心し、宿舎へと向かった。

 翌朝、衝撃の事実を知るのである。